昨日、地域の「おやじの会」に行ってきました。30分ほど遅れていったのですが、特に私のために話を最初から振り返ったりすることもありません。遅刻者として普通に迎えてくれました。
出席が久しぶりだったこともあり、ほとんど黙って聞いていました。そこで気づいたことが一つ。どうも『話し合いのレベルが高い』ようなのです。
いくつか話し合いのチェックポイントを思い浮かべました。
さきほどの遅刻者への対応もそうですし、目的も『あと1週間少々に迫ったイベントをいかに良いものにするか?』と単純明快。
参加者のモチベーションも高く、目指すところは一致しています。他人の意見を尊重しながら、一つ一つ丁寧に話し合っていく。
確かに、既に『実施方法の検討段階』であり、粛々と進めていけばよいだけと言ってしまえばそうかもしれません。
しかし、やっぱりレベルが高いのです。よく出来ています。かと言って、だれもファシリテーションを勉強している訳でもありません。この話し合いにはファシリテーションは必要ないのだろうな。。。。そう実感しました。
では、逆にファシリテーションが必要な話し合いって、どんなものでしょう?言い換えると、ファシリテーションがぴたっとはまる話し合いってなんでしょう?
実は、これもまだ結論が出ていません。
今、自分が分かっていることと言えば、ファシリテーションを学ぶ時に、もっと大切なものがありそうだという点です。それは、『心と心、腹を割った話し合い』にするにはどうしたらよいか?「どうしたら相手の役に立つことができるか?」という気持ちの勉強です。
参加者に対して、「論点がずれていますよ」「それは後で話しましょう」さっそうと話し合いの席を仕切っていく。ファシリテーター自身が最も酔う瞬間でしょう。でも、その瞬間、ファシリテーターに押さえ込まれていやな気持ちになった人間が確実に一人出来ている訳です。
そんな場合、得てしてファシリテーター自身が喋り好きで、相手の気持ちの変化に気づいていないでしょう。
つまり、言いたかったのは、話し合いを進行していくツールである『ファシリテーション』を振り回す前に、『参加者への思いやり』を発揮できますか?ということです。
あなたのファシリテーション、心配りが出来てますか? |
あなたのファシリテーション、心配りが出来てますか?
若い私がこんなことを言うのは失礼なのですが、近所のお年寄りが一生懸命



